僕だからできる
“正確な情報を伝える”こと
TRAINER 鴇田 昌也Masaya Tokita
「自分のアイデンティティがバチンと失われた瞬間だった」ーそう話すのは、THE PERSONのトレーナー、鴇田昌也さん。中学高校大学と陸上競技に勤しみ、大学時代は箱根駅伝出場を目標に強豪大学へ入学も、足の故障に苦しみ、トレーナーへの道を志す。現在は整形外科での勤務、大学陸上競技部でのトレーナー活動、一般向けパーソナルトレーナーや論文執筆など多岐に行い、スポーツや運動の価値提供活動に従事している。学生時代から大きな挫折を経験し、常にアップデートし続けている鴇田さんが、今目指す場所とは。今後の目標を伺った。
Contents
“走ることを取り戻したくなった”、初めての挫折からの再起
―まず、陸上を始めたきっかけは何だったのでしょうか。
僕には3つ上の兄がいるんですが、子供の頃から兄貴について遊んでいて、兄貴が自転車に対して僕は走ってついていくという感じでした。笑 小学校はほぼそんな感じで、気づいたら長距離走が速くなっていて、長距離走は校内トップだったんですが、中学には陸上部がなく、兄もやっていたという理由でソフトテニス部に入りました。
僕が通っていた学校は支部駅伝に出ていて、そこに速いからという理由で駆り出され、期間限定で駅伝の練習に3年間参加していたんですが、明らかにテニスよりこっちの方が強いという感じになっていたんです。県で入賞できるくらいのタイムになっていて、走るのいいなと思っていたので、高校では陸上部に入ったという感じですね。
―絶対にやりたいというよりかは、選択肢があったからということなんですね。
そうですね。実は小学校4年生の頃に、1ヶ月くらい腸閉塞で入院して、その後信じられないくらい運動ができなくなったことがあって。運動すると吐き気がするという理由で入院したので、1年間ほど運動ができなくなりました。その後中学生くらいから少しずつ運動ができるようになった中で、もともと得意だった長距離走ができなくなったという経験から、走ることを取り戻したくなったんです。
―取り戻したいというのは、ネガティブなところをゼロに戻すようなイメージですが、更にそこからプラスにする原動力や探究心などもあったのでしょうか。
負けず嫌いはとてもあると思います。人に対してではなく、常にアップデートされていない自分に対して、”悔しい”という思いがありますね。常にプラスになっていないと気持ち悪いという感じ。マイナスになってしまった時に、そういう感情が出てきました。
“自分のアイデンティティが失われる感覚”を味わい、そこで気づけた大きなこと
―その後、箱根駅伝に出るような大学に進まれたんですね。様々な経験があったと思いますが、高校から大学を決めた時の決断などを遡ってみていかがですか。
箱根駅伝は、小学校の頃から大好きだったんです。「すごいなー、超かっこいい!」とはずっと思っていて、中学生の時は実際に出ると言っていましたね。それぐらいタイムが良くて、やれるんじゃないかという自信がありました。高校に入った頃も箱根に出たいと思っていたんですが、タイムが伸びなくなり、たくさん怪我をしてしまって。一度箱根を諦め、自分が怪我をした時にお世話になった理学療法士(PT)を目指そうと振り切って勉強していました。でもやっぱり走りたいと思い、ちょうど怪我も治り走れるようになったので、このままやり続けないとどこかで絶対もどかしくなるな、とりきれない思いになる、と思いました。
―ご自身が”患者”としてお世話になった時に感じたことは何かありましたか。
走れないということに対して、世界に対して闇を抱くというか。自分の生活の中心であり目標の全てだったので、怪我によって自分のアイデンティティがバチンと失われる感覚でした。でもそれを治そうとしてくれる人がいてくれた時に、単純に走らせるようにするだけではなく、僕の人生そのものを取り戻させてくれるんだという気づきがありましたね。実際によくできたりして、すごいなと思うことが多々ありました。スポーツを生きがいにしている人たちの、無くなってしまった思いを取り戻せるんだというところがすごいなと思いました。
“箱根を諦めないためにトレーナーになった”―プレイヤーから選手をサポートする立場へ
ー小学校の頃から憧れだった箱根駅伝を目指して入部した陸上部で、大学2年生の時に選手からトレーナーに転身されたということですが、そのきっかけは何だったのでしょうか。
大学1年生の秋から丸一年くらいずっと怪我していて、走れない悔しさを抱えながら過ごしていました。その年の箱根駅伝の予選に自分のチームが出ていたのですが、落ちてしまい、箱根駅伝の出場を逃してしまいました。その時、めちゃめちゃ悔しくて。自分は走っていなかったけど、他の選手の頑張りを見ていた中で、落ちたことに対して自分が何もできていなかったことがとても悔しかったんです。このまま選手のままでいたら、ずっとノータッチだなと思い、リタイアしました。
箱根を諦めるというよりも、諦めないためにトレーナーになったという感じでした。 今まで自分が走ることの貢献しか考えられなかったのが、予選会に落ちたタイミングで自分がトレーナーとして関わって、絶対にこのチームをよくするという感情に変わり、トレーナーになりました。それからは、寝る間を惜しんで相当勉強しましたね。
―予選敗退から翌年19位、翌々年8位というめざましい成果を残されたと思うのですが、個人やチームとして意識して取り組んでいたことはありますか?
選手のヒアリングを意識してやっていました。もちろん身体的なところもそうですが、モチベーションのところを。それは今も変わらずなんですが、今の選手たちがどういう気持ちなのかをどう上手く汲み取れるか、その上でどう引き上げてあげられるかというところで、すごく密にコミュニケーションをとって親身にインサイトを回収して、というのはすごく意識してやっていましたね。
全員が主体性を持って、それぞれがチームを作ろうとしていることもよかったなと思います。
―そういう風に意識してできていたのには、自身の経験が生きているのでしょうか。
そうですね。中学時代と高校時代の恩師の影響が大きいかもしれません。
中学の先生が自分の思いを上手く聞きとってくれたことがあったり、高校生の頃に箱根に出たいという僕に声をかけてくれた先生が、密にコミュニケーションをとり、すごく上手く目標設定をしてくれたおかげで頑張れたという経験があって。そういう先生方に囲まれて、なんとか引き上がってこれたんだなという思いはずっとあったので、自分が誰かを指導する立場になった時に、”話す”というのはすごく心がけようと思いました。”指導する”というよりも、”話をしてあげる、聞いてあげる”という傾聴みたいなことに対しては、非常に意識しようと思いやっていました。
―その後、大学院に進もうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
トレーナーとしてチームのサポートを続けていく中で、更にてっぺんを見てみたい、そこまでサポートに関わりたいという思いがあったことと、サポートしている内容に対して、自分の研究室の教授の元でもっと勉強したら、現場で生かせるノウハウが手に入ると思い、もう少し勉強したいと思ったからですね。てっぺんを目指せるチームを、僕が作りたいと思ったんです。
教授から世界の知識に触れないとアップデートされないよというのはずっと言われていて、海外の学会に出してみないか、とも言われていました。言語が限られてしまうだけで知識の幅が狭まるし、日本語への翻訳もやはりラグがあり、英語ですぐ読めたら最新の情報に触れられるので、今でも続けています。
常にアップデートを繰り返し、100%健康な文化を作りたい
―その後、山手クリニックに入られたんですね。それまで大学の陸上部のチームを見てきた経験と、クリニックってまた見る方や幅も違ってくると思いますが、世界が広がったことによって受けた影響や考え方はありますか?
たくさんあります。それまではスポーツというものだけに対して何か届けたいという思いだけだったのが、アスレチックトレーナーという資格を通じてクリニックに入って、スポーツ以外の層というか、一般の方たちに対しても、運動の素晴らしさや運動によって身体や心が良くなっていくというのを届けられるんだというのをそこで初めて感じられたのは、すごく新しい価値観でしたね。これだけ自分が持っているものって求められるんだ、与えられることが多いんだ、というのをそこで初めて気づけました。今にも完全に繋がっている新しい価値観です。
―鴇田さんが掲げられている自己理念は、クリニックも経た上で形成されたことなのでしょうか。
これは間違いなく*庄司竜太郎さんの影響ですね。今まではランナーをサポートするだけの理念だったんですが、今はスポーツや運動を通じて豊かな社会を作る、正しい情報をお伝えする、ランナーのサポートをする、という3つを掲げています。
まず庄司さんの理念に共感したというのと、あとは僕だからできることを考えた時に、自分はアカデミックに生きているなということがすごく出てきて、運動を伝えるということに対してきちんと正しい情報を論拠がある状態でお伝えしていくということは、人に何かを与えていく上で絶対に重要なことだなと思っていたし、それは僕だからこそできる部分だと思いました。
―常にアップデートをしている鴇田さんですが、自己理念はアップデートされているのでしょうか。
アップデートされちゃってるんですよね。ここに関しては完全に*stadiumsの影響と自分の環境の変化が大きいです。軸は変わっていないんですが、一人だけではアッパーがすぐにきてしまうので、本当に達成したい理念を自分だけでは達成できないとなった時に、それを届けられる人を一人でも多く育てる、というところが今は大きな理念ですね。
―アップデートされた理念をもとに、今の鴇田さんが目指すところは?
僕や僕の周りが成長してくれていて、ゆくゆく自分自身は大学に戻るという話をしているんですが、そこで新しいトレーナーの育成をしていくというのが仕事としてのビジョンですね。
健康を作っていく人たちを作るとなった後に、その人たちが世の中に出て、いろんな人にサービスや運動やスポーツを伝えていくということになり、100%健康な文化になるというところが最終ゴールですね。いつになるか分からないけれど、僕がやってきたことが教育になり、それで教育された人が次の教育をするようなサイクルを作り、結果として100%健康になる世の中ができたら、本当に嬉しいなと思います。
―ズバリ、鴇田さんにとって”いいトレーナー”とは?
エゴじゃないこと、ですね。自分の思いやこうしたいと思うことで人をサポートするのではなく、その人が思っていることに対して全力で寄り添うこと。現状維持という人がいるなら、それを僕らは提供するべきであるし、プラスにしたいという人たちに対してはプラスにするべきであるから、その人の課題やその人の望んでいることに対して全力で寄り添える人、ですね。
―箱根を諦めないためにトレーナーになったという鴇田さん。自身の大きな挫折の経験から、目の前にいる人の気持ちを大切にすることや、自分の声掛けによって相手がどういう感情になるかということを、とても思慮深くコミュニケーションを取られている直向きな姿から、健康や運動というものに対する熱い思いを感じました。自分にしかできないことを突き詰め、仲間と手を取り合って社会のために今できることを考える鴇田さんの活躍に、今後も目が離せません!
Profile
鴇田昌也(ときた まさや)
1995年生まれ。千葉県出身。
中学高校大学と陸上競技に勤しみ、大学時代は箱根駅伝出場を目標に強豪大学の門を叩くが、足の故障に苦しみ、トレーナーへの道を志す。その後、スポーツ・健康に関する研究を行うため大学院へ進学。正しい情報を現場に届けるべく整形外科での勤務、箱根駅伝出場大学のチームサポートに奔走する一方、一般の方々へのスポーツや運動の価値提供活動に従事。スポーツや運動を通じて、世の中を健康にする。そしてその健康が持続する社会を作ることを理念に活動。
保有資格
・日本スポーツ協会公認アスレティックトレーナー
・スポーツ健康学修士
・健康運動指導士
<取材・編集=山本真奈(@maaaaa7a)/文=藤井由香里(@yukaringram)>
ワード
庄司竜太郎
プロアイスホッケー選手やプロサッカー選手をはじめ、数多くのプロスポーツ選手のパーソナルトレーナーとして、選手の強化やコンディショニングに従事。現在は、stadiuns.incのCHOとしてトレーニング事業の責任者を務める。主な経歴は、日本オリンピック委員会医学科スタッフ、スポーツ整形外科主任。所有資格はアスレチックトレーナー。
stadiums.inc
ひとりの人を“健康”でより良くする」ことをミッションに掲げ、1時間1500円から誰でもレンタルできる、日本最大級のレンタルジムのシェアリングプラットフォームの運営を軸に、トレーニング体験を仲間と共有することで運動習慣を作るグループパーソナルなどのサービスを手がける。https://www.the-person.com
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